心の在り方 R&D

物も情報も不自由なく取得できる時代なのに、心は晴れずなかなか幸せになれない。心穏やかに少しでも心豊かに生きていけるようにしたい。

過去をアホだと思えること=成長の証

短いながらも自分の人生を振り返ってみると、良かったと思えることよりも、昔はほんとにアホだったと思うことや後悔の方が圧倒的に多い。そのことにしばしば落ち込んでいたが、そう思えることは実は褒めるべきことなのではないかと思えるようになってきた。

高校時代の最大の後悔は、大学選びで妥協したことだと思う。高校3年の夏の時点で、漠然と進学したかった大学は望みが薄く現実的に進学可能そうな大学を志望校とし、実際にその学校で大学生活を送った。社会の荒波にも揉まれ、今では学歴やら偏差値やらは心の底からどうでもいいと思っているけれども、高3の夏にワンランク上の学校を諦めたことはアホとしかいいようがなかったと今も引きずっている。18歳の感性が豊かなる時期に自分はこの程度だろうと思い込んだことは人生の損失だったと思う。夏から受験直前まで必死でもがけば急成長したかもしれない、このままの勉強スタイルではいけないと抜本的に作戦を考えたかもしれない、その学校に合格し困難と思っていたことも成し遂げられる強烈な成功体験が得られたかもしれない。諦めたことで思考も成長も停止し、20歳より前に得られたかもしれない貴重な経験や自信を自ら放棄したことに悔やんでも悔やみきれない。高望みのまま受験に失敗したかもしれないよという声も聞こえそうだが、望むことに精一杯努力して失敗した経験も、諦めて何もしなかったことよりは何倍も価値があったはずだ。


大学時代の後悔は、せっかく人生を考える機会が十分にあった時期に、目の前のことばかりに取り組むことで時間を浪費してしまったことだ。様々な職種のアルバイトやインターン、海外経験など未来を考えるヒントが得られる可能性が幾らでもあった時期にも関わらず、私は特定のアルバイトと部活、学科の勉強と、狭い世界で限られたことを繰り返しているだけだった。大学時代のインプットからしか、その後の進路の選択肢は生まれない。現在進んだ道に満足はしているけれど、これでほんとに良かったのだろうかと疑問に思うときがある。どれほど多様な経験をしても完全に納得できるとは思えないけれど、あまりにも狭い世界しか知らなかったので、もう少し知らない世界を見ておきたかったという気持ちが収まることはない。結論はどうであれ、過去を悔やむ気持ちが心の迷いに揺らぎを与えてしまっているのだ。


あのときはアホだったなと何度も思う。それでも、過去の行動が失敗だったと理解できることは、現在はその位置を俯瞰的に見れる位置にいること。つまりは、過去からそれほど成長できたことの裏返しでもある。後悔が大きければ大きいほどそれほど違う場所まで登っていることでもあると気づいた。過去の過ちを無意味に嘆き落ち込むのではあれば、成長した自分を褒めてあげた方が随分いい。そして、それをエネルギーに変えて同じ轍を踏まないようにすれば人生は益々良くなるだろう。社会で働き始めて数年、数え切れないほどの失敗をやらかし、その都度凹み反省してきた。それでもまだ、心の奥底からアホなことをしたと思えるほどではない。それはまだ私が大して成長できていないことでもあるのだ。もっともっと経験値を積んで、社会人なりたての数年間はアホだったと思えるときに、目の前には今とは異なる世界が広がっているはず。地道に経験を紡いでいきましょう。