心の在り方 R&D

物も情報も不自由なく取得できる時代なのに、心は晴れずなかなか幸せになれない。心穏やかに少しでも心豊かに生きていけるようにしたい。

承認欲求はいつまでも

歳を重ねて人生経験を積んでも、承認欲求はなかなか満たされないんだと思うことが立て続けてにあった。

先日BARに行ったときのこと。初対面であったがお店に来ていた60歳位のお客さんと色々と話した。最初は仕事とか出身地とか表面的な話から入り、徐々に休日の過ごし方などのライフスタイルに会話が移りかわった。それとともに、「先輩目線」の口出しが増えていった。“若いうちはどうすべきだよ。だから俺はこうしている”  “何々せないかんよ。だから俺は今後こうする予定” それらはどんどん加速していき、途中からは説教されている気分だった。あの人はいったい何がしたかったのだろうか。最初はご自身の経験を親切心で伝えたいのかとも思ったが、価値観や持論の押し付けが強く、結局はただ単に若者に講釈を垂れて気分良く過ごしたかったのではないかという結論にいたった。私のことはお構いなしに一方的にまくし立て、口を挟む隙が無いほどアドバイス(?)をし続ける。自分の話を聞いて欲しい=自分の存在意義を確認したい=承認欲求を満たしたい のかなと思った。

今日寄った近所の飲み屋さんにて。とある50歳位の常連客が女将さんにずっと話しかけ続けていた。“今日は何々をした。こういう成果があったんだ” 女将さんは専ら聞き役で “へー、そうなんですか、すごいですね” という相槌を繰り返している。その方は楽しそうで益々饒舌となって矢継ぎ早に話をしていた。飲食店のようなサービス業では、お客様をもてなしてくださる。小耳が痛いことはほぼ言われず、どんな話でも大抵は無条件に受け入れてくれる。その常連客も料理やお酒に加えて、 女将さんとの心地良いトークも目的としてお店に足を運んでいるのだろう。

50歳や60歳にもなると達観しているものだと思っていたが、自分を認めてもらい肯定されたいという気持ちや承認欲求が満たされるというわけではないのだなと学んだ。こうした感情とは一生向き合っていかなければならないのだと考えさせられる。

自分自身今後も聞き役として相手をするときも沢山あるだろう。年配の方の言葉は非常に役立つ時も多いが、聞いているだけでしんどくなる上から目線もある。出来れば自分が興味のあることを気持ち良く語ってもらえれば双方にとって中身の濃い時間となる。相手の気持ちを汲み取りながらも、会話の内容を知りたいことに持っていけるよう心掛けていきたい。逆に自分が語るとき。できる限り自分の感情を入れず、価値観や自論を強制しないように心に留めておきたい。言いたいことがあっても、こうすれば改善するのでは?という提案や、こういう考え方もあるよーぐらいの紹介ぐらいで抑えておきたい。
頭では分かっていても実行するのは簡単でないけれど、これらを意識しながら少しでも器用に承認欲求と付き合っていけたらと思う。