人生はエゴ全開で生きていけばいいんじゃないか
では逆に、エゴばかりの人生を送っている人は非難されるべきなのだろうか?と考えるとそうでもないような気もする。例え周囲の人に多少迷惑を掛けて生きようがそこまで悪くはないとも言えそうである。例えばAさんがエゴの塊とする。Bさんに迷惑を掛けまくるとすると、Bさんは大抵Aさんから離れていく行動をとろうとする。それを察知したAさんは今度はCさんに絡みにいく。Cさんも最初はAさんの相手をしていても、次第に離れていく。Aさんは次の標的をDさんとするかもしれないが、これまでの行いの反省をして態度を変えるかもしれない。また被害にあったBさんやCさんは苦い経験を糧に反面教師として対人スキルが向上するかもしれない。ミクロにみるとエゴな振る舞いも、マクロにみると人生経験の幅を広げるきっかけでもあったりする。反対に他人に良かれと思って沢山行動を起こしても、相手によっては小さな親切大きなお世話だったりもする。
結局、ひとりひとりの人間が何をしようが良いことと悪いことの両方が存在し、ちょっとやそっとで人生が変わるようなこともないのだから、エゴ全開で生きても別にいいんじゃないだろうか。
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視点を変えて、人と社会について考えてみる。世の中には社会の発展に全てのエネルギーを捧げて実際に大志を成し遂げる人もいれば、人生をかけて享楽を味わうことに専念した人もいるだろう。勿論前者は素晴らしくその業績は拍手喝采されるべきである。だからといって後者は褒め称えられることはなくとも、その人生がダメという訳ではない。更にいえば、自動車や携帯電話を発明して世に広げたような優れた人は世の中の利便性を向上させたが、極端なはなし仮にそれらが発明されなくたって別によかったともいえる。科学技術が発展していないような時代でも人々は生きていたし、現在とは違った楽しみ方や幸せの享受の仕方があったのだろう。200年後には車が空を自由に飛んでいる便利な時代かもしれないが、それがない現在だって別に問題もなければこの時代ならではの良さも沢山ある。エジソンやライト兄弟がいかに凄い業績を挙げていても、過去の偉大な功績に感謝はしても、思いをはせることなんかほぼなく、さほど関心を持たないのが現実ではないか。
辿り着く思いの結論は、ひとりひとりの人間が何をしようと成し遂げようと、歴史のような長い視点でとらえると人も社会も誤差程度にしか変わらない。
だからこそ、ああすべきこうすべきと肩肘張って生活していくんじゃなくて、人生はもっと自由にエゴむき出しで生きたらいいんじゃないだろうか。
生きていくうえで社会的使命を持てるのであればそれを全うしたらいいし、そのような気概がなければ無理に頑張る必要はない。自分が思うところにエネルギーを注いで充実させればいいんじゃないか。こうしたゼロベースで考えて自分が好きこのんで取り組める分野でしか頑張れなかったりする。逆説的ではあるが、こうしてエゴな気持ち全開で打ち込めることこそが、社会に大きく貢献するような大きな果実を生むことに繋がるんじゃないだろうかとも思う。