心の在り方 R&D

物も情報も不自由なく取得できる時代なのに、心は晴れずなかなか幸せになれない。心穏やかに少しでも心豊かに生きていけるようにしたい。

さらば、高校時代の友情

懐かしき高校時代の友人とアミューズメント施設に行って遊んだが大して楽しめなかった。その原因を分析していると、高校時代の友情に賞味期限が切れたのだと悟った。

楽しめなかったことの1つの要因は、会話が弾み切らなかったことだろう。違う街に住み、それぞれ異なる仕事をし、生活のスタイルもバラバラという状態では共通の話題があまりにも少なかった。仕事などの近況報告を聞くも、そうしたことは表面的な情報のやり取りであり、知識が増える喜びはあるものの、会話の盛り上がりには欠ける。よくよく考えると高校時代には、大学進学という共通の目標に、文化祭や体育祭のようなイベント、クラスメートという共通の知人など、共有できる話題に溢れ強く共感できることも多くそこから生まれる笑いがあった。いわば同じ時間を過ごすことで成り立っていた楽しさがあったのだ。昔の思い出が色褪せることはないけれども、今後その友人達とは昔ほど楽しめるときが訪れることはないのだと思う。よっぽど話題に工夫を凝らしたり、壮大なイベントを共にするなら過去を凌駕することができるかもしれないが、社会人として働く各々がプライベートにそれほどエネルギーを割けることもなく、小さく楽しむ会合にしか成り得ないのだろう。そして、誰かの結婚を機にその集いも終わってしまう予感を持った。当時は強固な絆は永遠のものと思っていたが、その時をピークとして時間の流れにより緩やかに下降していく。わびしくもあるが、ほのかに残る友情の灯火を楽しむしかできず、高校時代という過去を振り返るのではなく、現在や未来のことを考えて大切にしていかなければならないんだなと思わされた。

今日の遊びを楽しめなかったもう1つの理由は、アミューズメント施設を知ってしまったことだと考える。20歳にも満たない頃の私には、ボーリングにしろカラオケにしろゲームセンターにしろ素直に楽しめていた。だが今はそれらのとこに行ってもあんまり楽しめない。ボーリングにしても、スコアで勝つとどのくらいの嬉しさで負けるとどのくらいの残念さとなるのかが非常に鮮明に想像できてしまい、ほとんどの場合はそのイメージ通りとなる。そうした既視感のある感情となっても心から楽しいということはなくそれなりにしか面白みはない。そうした意味でも、一緒に行ったことのあるメンバーといくアミューズメント施設にはワクワク感が誘発されることはもう2度とないのだろう。

長い人生にとって高校時代の3年間は極一部に過ぎない。感受性豊かな青春時代に共に過ごした濃厚な時間は、掛け替えのないことには変わらないが、歳を重ねた今となってはもはや遠き過去である。感情の変化という事実が明白に見せてくれた友情の溝は埋まることはなく離れていくばかりである。それはそれで受け止めるしかないのだろう。それでもせっかくのご縁でもある。大人の付き合い方であったり、仕事で関わったりと、これまで違う形で新しい絆を紡いでいけたら良いなとも思う。
さらば、高校時代の友情。また違う形で楽しめる日を楽しみにしている。